2015年1月15日木曜日

日本古代王族の婚姻系譜⑩


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 《考古学&古代史の諸問題》 
 《参考:年表・資料》

 Matのジオログ
 さいたま朝日WEB
 『日本創世紀』:倭人の来歴と邪馬台国の時代小嶋秋彦

 出典:柿本一征(かきもとかずゆき)・言語復原史学会正会員

 ≪日本古代王族の婚姻系譜≫


 「「国造り」=「よみがえり」世界観の象徴」

 どんな小さな国(邦)でも、新しく邦を始めるときには、

 その邦のシンボルとなるものを設定する

 (ヘソ石を据える、山中の岩を割る、小山を築く、

  杭を打つ、木を植えるなど)、

 あるいはそういう行為を為すのである。

 こういうものを築造して王の権威の高揚を図る

 (築造するだけの力量を誇示する)、

 あるいは国民意識の高揚の効能もあるであろう。

 いずれにしても、奴隷労働などではありえない、

 ということはいえる。

 立岩から割石一つ切り出すにしても、

 国民総動員で力を合わせて運搬したのである

 (総動員というのは直接間接という意味である。

  男はロープを引っ張り、女は食事をつくった

  《かどうかはわからないが》)。

 それが国造りというものだからである。

 ある時期(四世紀初頭~およそ前半)、

 ある集団にとっては、

 丘の中腹に列石施役の築造がそれに該当した、

 というだけのことである。

 それにしても、

 こんな大それた施設を軍事目的以外の目的で築くということは、

 相当に強く大きな、意識的、生産力(国力)的な

 インパクトがあったのに違いない。

 世界観の断裂があったと表現出来る程度のそれである。


 「帯隈山と倭王」

 次は、帯隈山についてであるが、

 結論としては真浄が築造者だったのではないか、

 ということであるから、

 真浄が倭王であることは間違いないといえる

 (茶臼山の茶臼はチャンスン=男将軍?)。

 加治木著「邪馬壹国の言葉」(コスモ出版)の中に

 「尾=隈=倭=ウアイ」という部分がある

 (p190)から、帯隈➩隈帯➩倭帯で倭王になる

 (少なくともそういう意味が含まれているといえる)。

 黒住秀男他共著「古代日本と海人」(大和書房)p159によると、

 吉野ケ里に近い霊山金立山

 (徐福伝承で名高い、帯隈山遺跡に近い)の

 西方約三キロ地点に大和町「有ノ木」という地名がある。
 
 そこは有明海から嘉瀬川をさかのぼったところ。

 海人がきた可能性が大きい、とある。


 「アンビトリテとポセイドンの系譜」

 同著は「有木」地名の分布を全国的に調査しているうちの

 一部分である。

 他に昭文社のエアリアマップで

 帯隈山列石遺跡周辺の地名を調べていると、

 筑紫郡に「網取」という地名がある。

 有木、有ノ木は阿爾(濔)今の音韻変化であり、網取も、

 ① 阿濔の棟梁(結局阿爾兮)、

 ② 奄美王、

 ③ アンビトリテの省略形

  (アマミはアンビトリテのアンビの音韻変化、

   アンビトリテはギリシャ神話の

 ポセイドンの妻・加治木通信講座)、

 である(Ambitorite?Amitori)。

 有ノ木、網取の二つの地名は、

 どちらからみても次の系譜と重なっている。     、

 「系図K」

 2     3      4  

    5      6  7    8     9



 伊買∥_|阿爾兮∥_|菅韓多羅∥_|息長 ∥_|千熊━真浄 ━竹内宿祢━石川宿祢
 内礼∥  臣潰沽∥  大筒木垂∥  日子王   長彦(網取 )(網浜) (湊)
     (清日子)  根      附志∥
     (天日槍)        |壹與 ∥_|咄固━美川王━故国原王━伊集院王
                                      位宮  ∥         (天日鉾)
            中日女  ━ 多婁  ━ 己婁━蓋婁 ━岡陋姫 ━|山無
            時姫   ━ 汾西  ━ 胆咋━五十琴━伊呂弗 ━ 洛


 「列石施設築造は石氏の事業だったか?」

 息長日子王の妃附志は汾西の妹で、

 この汾西、附志はフシ=フジ=葛(フジとも読む)=百済

 (フシ?クダラは後の時代の発音)で、

 汾西の子孫(孫)の五十琴宿祢は第13代百済王

 (近肖古王346~375)と解明されるから、

 汾西も、その妹の夫息長日子王も間違いなく

 百済殿(ポセイドン)なのである。

 真浄も百済本紀の近肖古王の立場から表現すると

 「朝廷佐平」であるが、

 前金官加羅国の立場でいうと、

 彼自身が前金官加羅国王=倭国王=倭帯(タラシ)=

 帯隈(山列石遺跡)

 ということになる

 (前文の繰り返し)。

 美川王の妃の父は石勒で、

 石氏は羯族の長で、

 羯族の宗教はゾロアスター教だった

 (小林「4C」p215)とある。

 真浄の弟にあたる石虎は「大土木工事をおこすのを好んだ」

 (p400陳舜臣前掲書)。

 石虎が趙王を潜称したのが334年、

 没年は449年(後趙)だから、

 列石施改築造の企画立案や現場監督の任務について

 いたこともあったのではないか…という

 程度のところまでは、推理が出来る。

 同じ圏内の列石遺跡のうち、

 把木遺跡の把木は葉木、抜奇と同じだから、

 K系図を少し変更すると、

  2      3      4      5    6   7    8

 抜奇 ∥_|八坂王∥_|大筒木垂根∥_|息長 ━千熊 ━真浄 ━武内宿祢
 竹野姫∥  真敷 ∥  菅韓多羅 ∥  日子王 長彦 (把木)(把木)

 となって、

 把木遺跡は武内宿祢が築造者なのではないか、

 という推測も成立するが、

 今はおつぼ山、雷山、帯隈山遺跡の築造者推定だけで

 満足することにしたい。


 「イトと五十跡手と天の日槍系譜」

 肥前国風土記逸文に

 「高麗の国の意呂山に天から降ってきた

  日槍の末裔の五十跡手とは私のことです、

  といったところ、

  天皇はお前五十跡手の本拠地を

  恪勤(いそし)の国というがよいといったのが、

  訛って恰土の郡というようになった」

 というような意味のことが書いてある。

 恰土郡は今の前原市、旧糸島郡の糸郡である

 (この糸島郡《現前原市》は

 魏書倭人章の「伊都国」と誤解されていることで有名であるが、

 後の時代の地名を三世紀半ば当時のものと誤認したもので、

 倭人章の伊都国は佐賀市一帯である)が、

 「この恰土国は日槍の同族が建てた国」

 (浮田洋太郎「ヤマト国家成立の秘密」・新泉杜p77)

 と判定して間違いない。

 日槍の系譜はK系図を少し変えさえすれば、

 簡単に理解できる。
   
  2      3      4      5     6   7   8

 仇道 ∥_|臣潰沽 ∥_|菅韓多羅∥_|壹與∥_|咄固━美川王━故国原王
 公孫度∥  (清日子)  大筒木 ∥  位宮∥        (天日槍の
 の宗女   (天日槍)    垂根∥ (熊襲タケル)    末裔五十跡手)
       阿爾兮 ∥

 五十跡手が仲哀天皇に降伏したのは354年のことだが、

 362年になると逆に仲哀天皇(=五十琴の長子伊呂弗)を

 戦死させているのである。

 (故国原王=熊襲、故国原王は熊毛郡=南九州《襲》と

 南西諸島の王)

 (仲哀9年=362年、

 肥前国風土記逸文基肆郡姫杜郡粂=あらぶる神がいて

 道行く人を殺した=仲哀天皇戦死)

 (前掲文の同義反復)。

 降伏した時に既に恰土郡にいたのだから、

 そこは故国原王の領地だったことになる。

 「人物史が読み取れる「人名」」

 父美川王が放棄して逃亡した肥前を、

 息子の故国原王が回復(奪還)していたということになる。

 なお、大筒木垂根の別名屋主忍男武雄心命の中に

 「武雄=武雄市」がふくまれていることは

 前稿(「七支刀」)でもみておいた。

 勢力は消長するし、人は情勢によって激しく移動する。

 人名は、

 単に領地を示す(名乗り)だけでなく、注意して考察すると

 (その人物の別の記録の解釈も加味するなどして)

 その人物の行動

 (何処から何処へ)が見えてくることが少なくない。

 吉備(岡山県)の開拓はどこからみても、

 王族の系譜の範囲でいうなら、

 既に抜奇(卑弥呼の弟)の代から始まっていた

 (2世紀末)ようである

 (「抜奇勢力出雲上陸」参照)。

 318年、半島で慕容傀に敗退した美川王は、

 姫島(国東半島の沖合)、

 安芸宮島を通過して(山口県でイツツヒコに妨害されている)、

 抜奇の子孫の己婁王(陳元達)や蓋婁王(陳安)が

 居住していた地(現在の総社市一帯)の

 隣地(東岡山市一帯?)を譲ってもらって、
 
 終の棲家に定めたのだった、という図式になる。

 同族のよしみがあったからこそのことである。

 おつぼ山遺跡は318年以前に築造されていた、

 ということになる。


 「美川王と蓋婁王」

 美川王と蓋婁王との「同族のよしみ」を系図で確認すると、

 次のようになる。

 「系譜L」

   4        5      6     7

 |大筒木垂根  ━|息長日子王
 (息長宿祢王)  |壹與    ━咄固  ━美川王
           (息長帯姫)
 |中日女 ∥
  大新河 ∥  _|多婁王∥━|己婁王∥_|蓋婁王
           清姫 ∥  清姫 ∥

 美川王の父方の曾祖父と、

 蓋婁王の父方の曾祖母とは兄と妹の仲だったのである。

 この己婁王が陳元達、蓋婁王が陳安の別名であることは

 後にみる。

 なお、美川王の勢力は

 南廻りの有明海ルートと、

 西方廻りで伊万里市(伊万里湾)に

 抜ける陸のルートがあったろうことが、

 その地形と地名から考察出来ると思うが、

 詳細な吟味は今は別のテーマである。

 「五十跡手の言語復原」

 五十=イソ=磯=磯城=隼人町、五島列島。

 イト=恰土郡(現在の前原市)、

 跡=ト=投(馬国)、アト=アタ=吾田、手=タ=立岩

 (伊万里湾の沿岸部にも立岩という地名がある)。

 354年から362年、伊呂弗

 (その妃玉彦姫の別名岡陋オカヤ姫=遠賀水門の支配者で

   両者の子は「竺志連」「鍛冶師連」とある)

 と故国原王(五十跡手)は、

 「崗水門」の領有をめぐって激突したのであるから、

 そこはどちらにとっても要衝の地だった

 (当然といえばあまりにも当然だが)。

 こうした最終的な戦闘行為を回避する手段として

 領有権の分有ということがあるはずだが、

 譲れない事情があると、生死を賭けての対決になる

 ≪参考リンク≫

 『古代史獺祭
 『三国史記
 『三国遺事
 『三国遺事
 『電子大藏經
 『倭・倭人関連の朝鮮文献
 『朝鮮の歴史

《参考》

 ARPACHIYAH 1976
 高床式神殿、牛頭、空白の布幕、幕と婦人、マルタ十字紋等
 (アルパチア遺跡出土の碗形土器に描かれている) 
  

 牛頭を象った神社建築の棟飾部

 本生図と踊子像のある石柱

 Tell Arpachiyah (Iraq) 
 Tell Arpachiyah (Iraq)     
 ハラフ期の土器について
 ハブール川
 ハブール川(ハブル川、カブル川、Khabur、Habor
、Habur、Chabur、アラム語:ܚܒܘܪ, クルド語:Çemê Xabûr, アラビア語:نهر الخابور Bahr al-Chabur
 ARPACHIYAH 1976
 高床式神殿
 牛頭を象った神社建築の棟飾部
 神社のルーツ
 鳥居のルーツ

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