2014年12月12日金曜日

第九代 伐休尼師今③王統系譜


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 《考古学&古代史の諸問題》 
 《参考:年表・資料》

 第九代 伐休尼師今(在位184年-196年)

 〔新羅の古代王統系譜〕

                ┌(7)逸勢─(8)阿達羅
(1)朴赫居世─(2)南解─(3)儒理─┤ 
                └(5)婆娑─(6)祇摩

                          (13)金味鄒
                   ┌(11)助賁─┬(14)儒礼
  (南解の娘婿)     ┌太子滑正─┤     │
(4)昔脱解─仇鄒─(9)伐休─┤     │     │
             │     └(12)沽解 └─乞叔─(15)基臨
             │
             └伊買──(10)奈解──于老─(16)訖解
 〔日本風の読み方〕

 居世(コセ、イセ、イヨ)=巨勢=伊勢=伊予

 南解(ナソカイ、ナカ)=南海、中

 儒理(シュリ)=首里

 逸勢(イセ)=伊勢

 阿達羅(アタラ)=阿多国

 婆娑(ハセ)=長谷、泊瀬

 祇摩(キモ、クマ)=肝=熊

 脱解(タカ、タケ)=高、建、武

 仇都(キュウシュウ、クス)=九州、串

 伐休(ハルキ)=春木、開

 伊買(イカイ)=猪養、猪飼

 奈解(ナガ、ナカイ)=長、中井
 
 千老(ウラ)=浦

 訖解(キカイ)=鬼界

 基臨(キリ)=霧、霧島、桐


 〔古い時代の朝鮮語と日本語との関係〕

 1 居西千(カサハン) (キョセイカン)(イシカン←イニシカン)

 2 居瑟邯(カツハン) (キョヒツカン)(イシカン)

 3 尼叱今(ニャサクム)(ニシコン)  (イシカン)

 4 歯叱今(イサクム) (シシコン)  (イシカン)

 5 居世千(カヌイハン)(キョセイカン)(イシカン)

 ≪参考リンク≫

 『古代史獺祭
 『三国史記
 『三国遺事
 『三国遺事
 『電子大藏經
 『倭・倭人関連の朝鮮文献
 『朝鮮の歴史

《参考》

 ARPACHIYAH 1976
 高床式神殿、牛頭、空白の布幕、幕と婦人、マルタ十字紋等
 (アルパチア遺跡出土の碗形土器に描かれている) 
  

 牛頭を象った神社建築の棟飾部

 本生図と踊子像のある石柱

 Tell Arpachiyah (Iraq)
 Tell Arpachiyah (Iraq)    
 ハラフ期の土器について
 ハブール川
 ハブール川(ハブル川、カブル川、Khabur、Habor
、Habur、Chabur、アラム語:ܚܒܘܪ, クルド語:Çemê Xabûr, アラビア語:نهر الخابور Bahr al-Chabur
 ARPACHIYAH 1976
 高床式神殿
 牛頭を象った神社建築の棟飾部
 神社のルーツ
 鳥居のルーツ

第九代 伐休尼師今②


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 《考古学&古代史の諸問題》 
 《参考:年表・資料》

 第九代 伐休尼師今(在位184年-196年)

 (原文)

 五年春二月、百濟来攻母山城。

       命波珍飡仇道、出兵拒之。

 六年秋七月、仇道與百濟、戦於狗壌勝之。

       殺獲五百餘級。

 七年秋八月、百済襲西境圓山郷、又進圍缶谷城。

       仇道率勁騎五百撃之。

       百濟兵佯走。

       仇道追及蛙山、為百濟所敗。

       王以仇道失策、貶為缶谷城主、以薛支為左軍主。

 八年秋九月、蚩尤旗見于角亢。

 九年春正月、拜國良爲阿、述明爲一吉。

  三月、京都雪、深三尺。 

  夏五月、大水、山崩十餘所。

 十年春正月甲寅朔、日有食之。

  三月、漢祇部女一産四男一女。

  六月、倭人大饑、来求食者千餘人。

 十三年春二月、重修宮室。

  三月、旱。

  夏四月、震宮南大樹、又震金城東門。

   王薨。


 (訳文)

 五年(188年)春二月、百済が母山城を攻撃して来た。

        波珍飡の仇道に命じて出兵させ、これを阻んだ。

 六年(189年)秋七月、仇道は百済と狗壌(忠北沃川郡内の狗川か?)

        で戦い、これに勝った。

        殺し獲得した者は五百余級にのぼる。

 七年(190年)秋八月、百済が西の国境の圓山郷を襲撃、

        また、缶谷城まで進入して包囲した。

        仇道は強兵五百騎を率いてこれを攻撃。

        百済兵は敗走するふりをした。

        仇道は蛙山まで追撃したが、百済に敗れた。

        王は仇道の失策に対して缶谷城主に左遷して、

        薛支を左軍主にした。

 八年(191年)秋九月、蚩尤旗(しゆうき)〔ほうき星〕が

       〔二十八宿〕の角(かく)と亢(こう)と〔のそばに〕

        に現れた。

 九年(192年)春正月、國良を阿飡とし、述明を一吉飡とした。 

  三月、王都に大雪が降り、三尺も積もった。 

  夏五月、大水が出て、山崩れが十餘ヵ所もあった。

 十年(193年)春正月甲寅の日に当たる朔、日食があった。

  三月、漢祇部の婦人が一度に四男一女を産んだ。

  六月、倭人は大飢饉に襲われ、食糧を求め〔新羅に〕千余人にも来た。

 十三年(196年)春二月、重ねて王宮を修築。

  三月、日照りが続いた。

  夏四月、宮殿の南の大樹に雷が落ちた。

   又、金城の東門に雷が落ちた。

   王が薨去した。


 ≪参考リンク≫

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 『三国史記
 『三国遺事
 『三国遺事
 『電子大藏經
 『倭・倭人関連の朝鮮文献
 『朝鮮の歴史

《参考》

 ARPACHIYAH 1976
 高床式神殿、牛頭、空白の布幕、幕と婦人、マルタ十字紋等
 (アルパチア遺跡出土の碗形土器に描かれている) 
 


 牛頭を象った神社建築の棟飾部

 本生図と踊子像のある石柱

 Tell Arpachiyah (Iraq)
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 ハラフ期の土器について
 ハブール川
 ハブール川(ハブル川、カブル川、Khabur、Habor
、Habur、Chabur、アラム語:ܚܒܘܪ, クルド語:Çemê Xabûr, アラビア語:نهر الخابور Bahr al-Chabur
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 高床式神殿
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2014年12月10日水曜日

第九代 伐休尼師今①


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 《参考:年表・資料》

 第九代 伐休尼師今(在位184年-196年)

 (原文) 

 伐休(一作發暉)尼師今立。

 姓昔。脱解王子仇鄒角干之子也。

 母姓金氏。只珍内礼夫人。

 阿達羅薨、無子、國人立之。

 王占風雲、預知水旱及年之豊儉、又知人邪正。

 人謂之聖。

 二年春正月、親祀始祖廟、大赦。

  二月、拜波珍飡仇道、一吉飡仇須兮、為左右軍主。伐召文国。

     軍主之名始於此。

 三年春正月、巡幸州郡 觀察風俗。

  夏五月、壬辰晦 日有食之。

  秋七月、南新縣進嘉禾。

 四年春三月、下令州郡。無作土木之事 以奪農時。

  冬十月、北地大雪 深一丈。


 (訳文)

 伐休(分注。發暉(はつき)とも書く)尼師今(にしきん)が即位した。

 〔伐休尼師今は〕姓が昔(せき)氏で、脱解(だつかい)王の子、

 仇鄒角干(きゅうすうかくかん)の子である。

 王母は姓が金(きん)氏で、只珍内礼(しちんないれい)夫人という。

 阿達羅(あだつら)尼師今が薨去して子がなかったので、

 国人は伐休を擁立した。

 王は風雲を占って、あらかじめ水害、旱魃、

 その年の豊穣凶作を予知でき、

 また、人の正邪を見抜いた。

 人々は伐休を聖人だと言った。

  二年(185年)春正月、王自ら始祖廟を祭祀し、大赦を行った。

   二月、波珍飡の仇道と一吉飡の仇須兮とを左右の軍主として、

      召文(しょうもん)国(慶北義城郡義城邑)を討伐させた。

      軍主の名はここから始まる。

  三年(186年)春正月、〔王は諸〕州・郡を行幸して、

      各地の〕風俗をよく観察した。

   夏五月、壬申の日にあたる晦日、日食が起こった。

   秋七月、南新縣がめでたい穀物を献上した。

  四年(187年)春三月、〔全国の〕州・郡に

      〔次のような〕命令を下した。

      農繁期に〔農民を〕土木工事に使わないようにしなさい。

   冬十月、北部の地方では、大雪が降り、深さ一丈にもなった。


 ≪参考リンク≫

 『古代史獺祭
 『三国史記
 『三国遺事
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 『電子大藏經
 『倭・倭人関連の朝鮮文献
 『朝鮮の歴史

《参考》

 ARPACHIYAH 1976
 高床式神殿、牛頭、空白の布幕、幕と婦人、マルタ十字紋等
 (アルパチア遺跡出土の碗形土器に描かれている) 

  
 牛頭を象った神社建築の棟飾部

 本生図と踊子像のある石柱

 Tell Arpachiyah (Iraq)
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 ハブール川
 ハブール川(ハブル川、カブル川、Khabur、Habor
、Habur、Chabur、アラム語:ܚܒܘܪ, クルド語:Çemê Xabûr, アラビア語:نهر الخابور Bahr al-Chabur
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2014年12月1日月曜日

三國史記 卷第二 新羅本紀第二 伐休尼師今


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 三國史記 卷第二 新羅本紀第二 伐休尼師今 (原文)

 伐休【一作發暉】尼師今 立 

 姓昔 脱解王子仇鄒角干之子也 母姓金氏 

 只珍内禮夫人 阿達羅薨 無子 國人立之 王占風雲 

 預知水旱及年之豊儉 又知人邪正 人謂之聖

 二年 春正月 親祀始祖廟 大赦 

  二月 拜波珍 仇道 一吉仇須兮爲左 右軍主 

      伐召文國 軍主之名始於此

 三年 春正月 巡幸州郡 觀察風俗 

  夏五月壬辰晦 日有食之 

  秋七月 南新縣進嘉禾

 四年 春三月 下令州郡 無作土木之事 以奪農時 

  冬十月 北地大雪 深一丈

 五年 春二月 百濟來攻母山城 命波珍仇道 出兵拒之

 六年 秋七月 仇道與百濟 戰於狗壤勝之 殺獲五百餘級

 七年 秋八月 百濟襲西境圓山鄕 又進圍缶谷城 

  仇道率勁騎五百撃之 百濟兵佯走 仇道追及蛙山 

  爲百濟所敗 王以仇道失策 貶爲缶谷城主 

  以薛支爲左軍主

 八年 秋九月 蚩尤旗見于角亢

 九年 春正月 拜國良爲阿 述明爲一吉 

  三月 京都雪 深三尺 

  夏五月 大水 山崩十餘所

 十年 春正月甲寅朔 日有食之 

  三月 漢祇部女 一産四男一女 六月 倭人大饑 

   來求食者千餘人

 十一年 夏六月乙巳晦 日有食之

 十三年 春二月 重修宮室 

  三月 旱 夏四月 震宮南大樹 又震金城東門 王薨


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 『古代史獺祭
 『三国史記
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 『倭・倭人関連の朝鮮文献
 『朝鮮の歴史

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 (アルパチア遺跡出土の碗形土器に描かれている) 
  

 牛頭を象った神社建築の棟飾部

 本生図と踊子像のある石柱

 Tell Arpachiyah (Iraq)
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 ハラフ期の土器について
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 ハブール川(ハブル川、カブル川、Khabur、Habor
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2014年11月26日水曜日

古朝鮮・檀君朝鮮(5)


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 《参考:年表・資料》

 古朝鮮・檀君朝鮮(5)

 三國遺事 卷第一 紀異 第一

 古朝鮮【王儉朝鮮】

 魏書云

 乃往二千載 有壇君王儉

 立都阿斯達

 【經云無葉山 亦云白岳 

  在白州地 

  或云在開城東 

  今白岳宮是】

 開國號朝鮮

 與高同時

 古記云

  昔有桓因【謂帝釋也】 庶子桓雄 

  數意天下 貪求人世 

 父知子意 

  下視三危太伯 

  可以弘益人間 

 乃授天符印三箇 遣往理之 

 雄率徒三千 

 降於太伯山頂【即太伯今妙香山】

 神壇樹下 謂之神市 是謂桓雄天王也 

 將風伯雨師雲師 而主穀主命主病主刑主善惡 

 凡主人間三百六十餘事 在世理化

 時有一熊・一虎 同穴而居 

 常祈于神雄 願化爲人 

 時神遺靈艾一・蒜二十枚曰 爾輩食之 不見日光百日 便得人形 

 熊・虎得而食之 忌三七日 

 熊得女身 虎不能忌 而不得人身 

 熊女者無與爲婚 故毎於壇樹下 呪願有孕 

 雄乃假化而婚之 孕生子

 號曰壇君王儉

 以唐高即位五十年庚寅

 【唐高即位元年戊辰 則五十年丁巳 非庚寅也 疑其未實】

 都平壤城【今西京】

 始稱朝鮮 又移都於白岳山阿斯達 又名弓

 【一作方】忽山 又今彌達 御國一千五百年

 周虎王即位己卯 封箕子於朝鮮

 壇君乃移藏唐京 後還隱於阿斯達 

 爲山神 壽一千九百八歳

 唐裵矩傳云 高麗本孤竹國【今海州】

 周以封箕子爲朝鮮 漢分置三郡 謂玄菟-樂浪-帶方

 【北帶方】

 通典亦同此説

 【漢書則眞臨樂玄四郡 今云三郡 名又不同 何耶】

 

 古朝鮮【王儉朝鮮】

 『魏書』に云う。

 すなわち二千載の往(いにし)え、壇君王儉(だんくんおうけん)有り、

 都を阿斯達

 【經に無葉山と云い、また白岳と云う。

  白州の地に在り。

  あるいは開城の東に在りと云う。

  今の白岳宮これなり。】に立て、

 國を開き朝鮮と號す。

 高(=堯/三皇五帝のひとり。)と同じ時なり。

 『古記』に云う。

  昔、桓因【帝釋を謂う。】が庶子の桓雄有り、

  數(たびたび)天下を意(おも)い、人の世を貪求す。

 父、子の意を知り、下に三危太伯

 (さんきたいはく/三危はみっつの高い山。

  太伯はそのひとつで、下に見える太伯山のこと。)

 を視るに、もって弘(ひろ)く人間を益すべきなり。 

 すなわち天符印

 (下に見える風伯・雨師・雲師の三神の印綬)三箇を授け、

  往(ゆ)きてこれを理(おさ)めしむ。 

  雄、徒三千を率(ひき)い、

 太伯山の頂【即ち太伯は今の妙香山なり】の

 神壇樹の下(もと)に降(くだ)る。

 これを神市と謂い、これを桓雄天王と謂う。

  風伯・雨師・雲師を將(ひき)い、穀を主(つかさど)り、

 命を主(つかさど)り、病を主(つかさど)り、刑を主(つかさど)り、

 善惡を主(つかさど)り、

 凡(すべ)て人間の三百六十餘事を主(つかさど)り、世に理化あり。

 時に一熊・一虎有り、穴を同じうして居す。

 常に神雄に祈り、化して人と爲るを願う。

 時に、神、靈艾一・蒜二十枚を遺わし曰く、

 「爾輩(なんじら)これを食い、百日日の光を見ざれば、

 すなわち人の形を得るべし」と。

 熊・虎、得てこれを食い、忌むこと三七(=二十一)日。

 熊は女身を得るも、虎は忌むこと能(あたわ)ずして人身を得ず。

 熊女は婚を爲す無く、

 故に毎(つね)に壇樹の下に孕(はらむ)こと有らんと呪願す。

 雄、すなわち假化してこれと婚し、孕みて子を生む。

 號(なづ)けて壇君王儉と曰う。

 もって唐高(=堯/三皇五帝のひとり。)の

 即位五十年庚寅(かのえ・とら)

 【唐高の即位元年は戊辰(つちのえ・たつ)。

  すなわち五十年は丁巳(ひのと・み)なり。

  庚寅(かのえ・とら)に非(あら)ず。その未だ實ならざるを疑う】、

 平壤城【今の西京なり】に都し、始めて朝鮮を稱す。

 また都を白岳山の阿斯達に移す。

 またの名を弓【あるいは「方」に作る】忽山、または今彌達という。

 國を御(おさ)めること一千五百年。

 周の虎王(周の「武王」のこと。

 高麗の二代・惠宋帝の諱が「武」であったため、

 武の字の使用を避けて「虎」と書いたもの)の

 即位己卯(つちのと・う)。

 箕子(きし/末尾の註1を参照)を朝鮮に封ず。

 壇君、すなわち藏唐京に移り、後に阿斯達に還り隱れ、山神と爲る。

 壽、一千九百八歳。

 唐の『裵矩傳』に云う。

 高麗はもと孤竹國【今の海州】なり。

 周の箕子を封ずるをもって朝鮮と爲し、漢は分かちて三郡を置く。

 玄菟(げんと)・樂浪(らくろう)・帶方(たいほう)

 【北帶方】と謂う。

 『通典』、

 またこの説に同じ

 【『漢書』はすなわち眞・臨・樂・玄の四郡。

  今は三郡と云う。

  名、また同じからず。何(いか)にや】。

 註1:箕子(きし)/殷(商)の公子。

    殷王朝の最後の皇帝紂王(ちゅうおう)につかえ、

    その乱行(酒池肉林)をいさめたが聞き入れられず、

    自ら狂人をよそおい奴婢となって身を隠したが紂王に見つかり

    幽閉される。

    やがてのちに殷を滅ぼした周の武王に助け出された。

    周の武王は箕子に殷が滅びた理由をたずねたが、

    箕子はその問いには直接答えず、政治のあるべき姿を語った。

    武王は「箕子に殷が滅びた理由をたずねても、

    彼がその王の悪口をいうわけがない。

    箕子はつらい思いをしたであろう。

    このようなことをたずねた余が愚かであった」と悔いて、

    箕子を朝鮮に封じたという。 

    これがいわゆる「箕子朝鮮」である。


 ≪参考リンク≫

 『古代史獺祭
 『三国史記
 『三国遺事
 『三国遺事
 『電子大藏經
 『倭・倭人関連の朝鮮文献
 『朝鮮の歴史

《参考》

 ARPACHIYAH 1976
 高床式神殿、牛頭、空白の布幕、幕と婦人、マルタ十字紋等
 (アルパチア遺跡出土の碗形土器に描かれている) 
  

 牛頭を象った神社建築の棟飾部

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 Tell Arpachiyah (Iraq)
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 ハラフ期の土器について
 ハブール川
 ハブール川(ハブル川、カブル川、Khabur、Habor
、Habur、Chabur、アラム語:ܚܒܘܪ, クルド語:Çemê Xabûr, アラビア語:نهر الخابور Bahr al-Chabur
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2014年11月25日火曜日

古朝鮮・檀君朝鮮(4)


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 《参考:年表・資料》

 古朝鮮・檀君朝鮮(4)

 三國遺事 卷第一 紀異 第一

 (序文および古朝鮮【王儉朝鮮】のみ抜粋)

 敍曰

 大抵古之聖人

 方其禮樂興邦

 仁義設敎 則怪力亂神 在所不語

 然而帝王之將興也

 膺符命 受圖

 必有以異於人者

 然後能乘大變 握大器 成大業也

 故河出圖 洛出書 而聖人作

 以至虹繞神母而誕羲

 龍感女登而生炎 

 皇娥遊窮桑之野

 有神童自稱白帝子

 交通而生小昊

 簡狄呑卵而生契 

 姜履跡而生 

 胎孕十四月而生堯 

 龍交大澤而生沛公 

 自此而降 

 豈可殫記 

 然則三國之始祖 皆發乎神異 

 何足怪哉 

 此紀異之所以漸諸篇也

 意在斯焉


 敍に曰く。

 大抵(およそ)古(いにしえ)の聖人、

 方(まさ)にその禮樂に邦(くに)を興(おこ)し、

 仁義に敎を設け、すなわち怪力・亂神の在るを語らず。

 然(しか)るに帝王の將(まさ)に興(おこ)らんとするや、

 符命(ふめい)を膺(う)け、圖(ずろく)を受け、

 必ず人に異なる者有り。

 然る後に能く大變に乘じ、大器を握し、大業を成す。

 故に河(=黄河)は圖を出し、

 洛(=洛水)は書を出して聖人を作(な)す

 (伝説に伏羲氏のとき黄河から図が出、

  夏王朝の禹王のとき洛水から亀の背に書かれた文書が出たという)。

 もって、虹、神母に繞(まと)いて羲(ぎ/三皇五帝のひとり、

 伏羲(フクギ)のこと。)誕(うま)れ、

 龍、女登

 (じょとう/『史記』三皇本紀に見える。

  三皇五帝のひとり炎帝の母。)に感じて

 炎(えん/三皇五帝のひとり炎帝神農氏のこと。)を生み、

 皇娥(こうが/三皇五帝のひとり小昊(ショウコウ)の母。)は

 窮桑(きゅうそう)の野に遊ぶに、

 自ら白帝の子と稱す神童あり、

 交り通じて小昊(しょうこう/三皇五帝のひとり。)を生み、

 簡狄

 (かんてき/水浴びをしていたとき、

  ツバメが卵を落としたのを見て、その卵をのんだところ、

  身ごもって契を生んだという。)は卵を呑みて

  契(せつ/商(殷)王朝の始祖。)を生み、

 姜

 (きょうげん/郊外の草原で巨人の足跡を踏み棄を懐妊した。)は

 跡を履(ふ)みて(き/后稷(コウショク)ともいう周の始祖。)を生み、

 胎孕十四月にして堯(ぎょう/五帝のひとり。

 妊娠十四ヵ月にして誕生したという。)を生み、

 龍、大澤に交わりて沛公

 (はいこう/前漢の高祖劉邦のこと。赤龍の子という伝説あり。)を

 生むに至る。

  これより降(くだ)るに、

  豈(あ)に記し殫(つく)す可(べ)けんや。

 然してすなわち三國の始祖は皆神異を發す。

 何ぞ怪しむに足らんや。 

 これ「紀異」をもって諸篇の漸(はじめ)とするところなり。

 意、これに在り。


 ≪参考リンク≫

 『古代史獺祭
 『三国史記
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 『倭・倭人関連の朝鮮文献
 『朝鮮の歴史

《参考》

 ARPACHIYAH 1976
 高床式神殿、牛頭、空白の布幕、幕と婦人、マルタ十字紋等
 (アルパチア遺跡出土の碗形土器に描かれている) 
  

 牛頭を象った神社建築の棟飾部

 本生図と踊子像のある石柱

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 ハブール川
 ハブール川(ハブル川、カブル川、Khabur、Habor
、Habur、Chabur、アラム語:ܚܒܘܪ, クルド語:Çemê Xabûr, アラビア語:نهر الخابور Bahr al-Chabur
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2014年11月24日月曜日

第八代 阿逹羅尼師今:⑤延烏郎 細烏女


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 《参考:年表・資料》

 第八代 阿逹羅尼師今(在位154年-184年)
 
 三國遺事 卷第一 紀異第一より 延烏郎 細烏女 抜粋 

 延烏郎 細烏女

 第八阿達羅王即位四年丁酉

 東海濱有延烏郎・細烏女 夫婦同居

 一日延烏歸海採藻

  忽有一巖

 【一云一魚】 負歸日本

 國人見之曰 此非常人也 

 乃立爲王

 【按日本帝記 前後無新羅人爲王者

  此乃邊邑小王而非真王也】

 細烏恠夫不來 歸尋之

  見夫脱鞋 亦上其巖

 巖亦負歸如前

  其國人驚訝 奏獻於王

  夫婦相會 立爲貴妃

 是時新羅日月無光

 日者奏云

  日月之精 降在我國 今去日本

  故致斯恠 

 王遣使求二人 

 延烏曰 

  我到此國 天使然也

  今何歸乎 

  雖然朕之妃有所織細綃 

  以此祭天可矣 

 仍賜其綃 

 使人來奏 

 依其言而祭之 

 然後日月如舊 

 藏其綃於御庫爲國寶 

 名其庫爲貴妃庫 

 祭天所名迎日縣 又都祈野

 ≪参考≫

 延烏郎(えんうろう/ヨンオラン)

 細烏女(さいうじょ/セオニョ)


 第八阿達羅王(=新羅王第八代 阿達羅尼師今)

 即位四年(=157年?)丁酉(ひのと・とり) 

 東海の濱に延烏郎・細烏女あり、夫婦同居す。 

 一(ある)日、延烏、海に歸(い)き藻を採る。

  忽(たちまち)一巖あり。 

 【一(ある)いは一魚と云う】 負いて日本に歸す。 

 國人これを見て曰く、「これ非常の人なり」と。

 すなわち立てて王と爲す。 

 【日本帝記を按ずるに、前後に新羅の人を王と爲すこと無し。

  これすなわち邊邑の小王にして真の王に非ざるなり】

 細烏、夫の來たらざるを恠(あや)しみ、これを尋ね歸(い)く。

  夫の脱ぎし鞋を見て、またその巖に上(のぼ)る。 

 巖、また負いて歸すること前(さき)の如し。 

  その國の人、驚き訝(いぶか)しみ、奏して王に獻ず。

  夫婦相い會し、立てて貴妃と爲す。

 この時に新羅に日・月の光無し。

 日者(=日官/日を司る天文官)奏して云いしく、
 
  「日・月の精、降りて我が國に在りしが、今は日本に去る。

   故に斯(かく)の恠(あや)しを致す」と。 

 王、使を遣わし二人を求む。 

 延烏、曰く、

 「我、この國に到るは、天の然(しか)しむるなり。

  今、何ぞ歸らんや。

  然りと雖ども朕の妃が織れる細綃有り。

  これを以って天を祭るべし」と。

 すなわちその綃を賜う。

 使人、來り奏して、その言に依りてこれを祭る。

 然して後、日・月、舊(もと)の如し。

 その綃を御庫に藏し國の寶と爲す。

 その庫を名づけて「貴妃庫」と爲す。

 祭天の所を「迎日縣」または「都祈野」と名づく。


 ≪参考リンク≫

 『古代史獺祭
 『三国史記
 『三国遺事
 『三国遺事
 『電子大藏經
 『倭・倭人関連の朝鮮文献
 『朝鮮の歴史

《参考》

 ARPACHIYAH 1976
 高床式神殿、牛頭、空白の布幕、幕と婦人、マルタ十字紋等
 (アルパチア遺跡出土の碗形土器に描かれている) 
  

 牛頭を象った神社建築の棟飾部

 本生図と踊子像のある石柱

 Tell Arpachiyah (Iraq)
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 ハラフ期の土器について
 ハブール川
 ハブール川(ハブル川、カブル川、Khabur、Habor
、Habur、Chabur、アラム語:ܚܒܘܪ, クルド語:Çemê Xabûr, アラビア語:نهر الخابور Bahr al-Chabur
 ARPACHIYAH 1976
 高床式神殿
 牛頭を象った神社建築の棟飾部
 神社のルーツ
 鳥居のルーツ

2014年11月23日日曜日

第八代 阿逹羅尼師今:④関連記事


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 《考古学&古代史の諸問題》 
 《参考:年表・資料》

 第八代 阿逹羅尼師今(在位154年-184年)

 『三国志魏書』倭人伝

 景初二年六月、倭女王遣大夫難升米等詣郡、求詣天子朝獻、

 太守劉夏遣吏將送詣京都。

 
 景初二年(238年)六月(通説では景初三年の誤記とする)、

 倭の女王が大夫の難升米らを派遣して帯方郡に詣で、

 天子(魏の皇帝)に詣でて朝献することを求めた。

 新羅本紀のいう「卑弥呼」が女王の称号だとすれば、

 初代女王が辰韓に使者を送ったとの解釈もありえるが、

 おそらく単なる誤写、あるいは阿達羅王の治世を虚飾するために、

 故意に時代を遡上させたのだろう。

 ※倭の女王卑弥乎、使を遣わし来聘す。

  二十年(173年)夏五月、倭の女王の卑彌乎が遣使を以て来訪した。

  卑弥呼の帯方郡・魏への遣使は『三国志魏書』倭人伝によれば、

  景初二年(238年)・正始四年(243年)・正始八年(247年)。

  もちろん新羅へのこの時の遣使は、中国史書にはみえない。


 『三国遺事』延烏郎と細烏女

 第八阿達羅王即位四年丁酉。

 東海濱有延烏郎細烏女。夫婦同居。

 一日延烏歸海採藻。忽有一巖(一云一魚)、負歸日本。

 國人見之曰:此非常人也。乃立為王(按日本帝記。

 前後無新羅人為王者。此乃邊邑小王。而非真王也)

 第八代阿達羅王の即位四年(157年)丁酉。

 東海の浜辺に延烏郎(ヨンオラン)と細烏女(セオニョ)がおり、

 夫婦で暮らしていた。

 ある日、延烏が海中で海藻を採っていると、

 突然、岩(魚ともいう)が出現し、(延烏郎)を乗せて日本に帰った。

 国人はこれを見て「これは並みの人ではない」と言い、王に擁立した。

 (思うに、日本の帝記は、

  前後に新羅人で(日本の)王と為った者がいない。

  要するに、これは辺境の邑落の小王であり、本当の国王ではない)。

 細烏怪夫不來歸尋之。見夫脱鞋、亦上其巖。巖亦負歸如前。

 其國人驚訝。奏獻於王。夫婦相會立為貴妃。是時新羅日月無光。

 細烏は夫が帰って来ないのを不審に思い、夫を探し求めた。

 夫の脱いだ鞋を見つけると、彼女もまた岩に上った。

 岩はまた前回のように(細烏を)乗せて(日本に)帰った。

 そこの国人は驚き怪訝に思った。

 謹んで王(延烏)に(細烏を)献上した。夫婦が再会し、

 (細烏は)貴妃に立てられた。

 この時、新羅の日月は光を消してしまった。

 日者奏云:日月之精、降在我國。今去日本。

 故致斯怪。王遣使求二人。延烏曰「我到此國、天使然也。

 今何歸乎。雖然朕之妃有所織細綃、以此祭天可矣」。仍賜其綃。

 使人來奏。依其言而祭之。然後日月如舊。藏其綃於御庫為國寶。

 名其庫為貴妃庫、祭天所名迎日縣、又都祈野。

 日が奏して言うには「日月の精は、降臨して我が国に在った。

 今、日本に去ったので、この不思議な現象に到った」。

 王は使者を派遣して二人を求めた。

 延烏が

 「私はこの国に到ったのは、天が然るべくさせたものである。

  今どうして帰ることができようか。

  だが、朕の妃が織る薄絹が有るので、これを天に祭れば、可なり」

 と言った。

 言葉の通り、その薄絹を賜う。

 使者が戻って来て奏上した。

 その言葉に基づいて薄絹を祭った。

 然る後、日月は元通りに復旧した。

 その薄絹を国王の御庫に収納して国宝にした。

 その庫を貴妃庫と名付け、天を祭った場所を迎日県、

 または都祁野と名づけた。


 『大朝鮮帝国史』

 三国遺事の延烏郎と細烏女の説話は、

 新羅に滅ぼされた馬韓遺民の倭列島移住を示し、

 この細烏女がまさに卑弥呼であり、その娘が神功皇后である。

 海上帝国を成していた沸流(プル)百済は、

 高句麗の広開土大王の侵攻によって

 本国の熊津(コムナル)を奪われて日本地域へ避難したのだが、

 この人が応神天皇である。

 応神は奈良百済を建て、

 そこを中心に本国の古莫那羅(コムナル)百済を支配した。

 失礼ながらトンデモ本に類する上記

 『大朝鮮帝国史』の解釈は兎も角、

 崇神天皇三十九年に来日したとされる

 「阿加流比売と天日矛」の伝承にどこか似ている。


 ≪参考リンク≫

 『古代史獺祭
 『三国史記
 『三国遺事
 『三国遺事
 『電子大藏經
 『倭・倭人関連の朝鮮文献
 『朝鮮の歴史

《参考》

 ARPACHIYAH 1976
 高床式神殿、牛頭、空白の布幕、幕と婦人、マルタ十字紋等
 (アルパチア遺跡出土の碗形土器に描かれている) 

  
 牛頭を象った神社建築の棟飾部

 本生図と踊子像のある石柱

 Tell Arpachiyah (Iraq)
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 ハブール川
 ハブール川(ハブル川、カブル川、Khabur、Habor
、Habur、Chabur、アラム語:ܚܒܘܪ, クルド語:Çemê Xabûr, アラビア語:نهر الخابور Bahr al-Chabur
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